俺たちSpartanic Rockersの
波乱万丈な Story vol.7
「日本人メンバー 2番目の男」
BOTY(Battle Of The Year)に行くからには日本人のチームメイトをつのって、日本での活動を本格化したい!
*ちなみにこの時点で、BOTYに出るルートや方法があったわけではない。俺が勝手に出るんだと決めて行動に入っただけである(笑)
チームメイトを選ぶにはいくつか条件があった。
まず、踊りの技量はもちろん大切だが、良く知っている人でないとダメだ。それは前にも書いたことだが、チームというのは人間関係がベースだから、踊りの実力だけで人を集めてもまとまらないからである。
そしていろんな意味で「一緒に踊りたい」と思える人でないとだめだ。
俺は真剣に日本人メンバーについて検討した。
この人選には、上記の条件の他に、Spartanic Rockersをどうしていきたいかという自分独自の視点を加味して行った。その大事な”要素”についてはまた後程お話ししたい。
さて、吟味の結果俺が声をかけたメンバーは2名であった。
まず1人目は、当時東京若手NO.1 の呼び声も高い、ツヨシ(唐沢 剛史/からさわ つよし)であった。
ツヨシと俺は当時からさかのぼると7年前からの知り合いであった。ツヨシは俺にとってはかなり衝撃的な人物であった。というのは、その上達があまりに早かったからである。
「自分以外のブレイカーを見たのは始めてです」と言うほど隔離された環境で練習をしていた当時のツヨシは、俺が何げなく口にするアドバイスをグングンと吸収し、瞬く間にその技量を上げていった。例えるならば「乾いた砂」のようなもので、水をまけば一瞬で全てを吸収する。ツヨシはブレイキングを始めた当初からその天才の片鱗を見せていた。後に聞いた話ではツヨシも実は必死だったらしい。
東京郊外の八王子出身の高校生だったツヨシは、(こう言ったらその土地の人達に怒られるかもしれないが)、土地柄的にも年齢的にも時代的にも、いわゆる「ヤンキー少年」だった。そのツッパリ精神から「この技を次までに絶対出来てないと馬鹿にされる。」という気持ちがとても強かったと言う。週に1度ぐらいしか顔を合わせなかった当時は、その間の1週間、必死に練習をして過ごしていたらしい。
最初に会ったのは、俺たちが練習していた、商業ビルの営業後の廊下であると記憶している。ツヨシはまだ15歳の少年であった。当時俺が一緒に練習していた仲間が、どこかで知り合って連れてきたのである。
当時ヘルメットを使ってヘッドスピンの練習していた俺は、スピードが速く、回転数も多かったため、石の廊下が削れて、粉末状になりメットに付着していた。
それを初めて見たツヨシはびっくりして翌日の学校で
「昨日メチャメチャやべー人に会った!頭で地面削ってた!!」
と同級生に話していたらしい(笑)。
その後、彼は地元の仲間たちとFREEZE(フリーズ)というチームを結成し、めきめきと上達していった。特にツヨシの相方である「JO」と2人のコンビは強烈で、様々なイベントで大暴れし、一気にその名前を広めていった。
だいぶ後になってから、沖縄出身のB-Boy、カズヒロから聞いた話がとても印象に残っている。
インターネットが普及していない当時、沖縄に住むカズヒロ達には内地のダンサーの情報はほとんど入ってこなかったという。そんな、情報隔離されているような環境でも、東京に凄い奴らがいるらしいと、ツヨシとJOの噂は聞こえてきたらしい。遠く沖縄まで、本来ほとんど情報が入ってこない中でも噂が聞こえてくるというのは相当な事だったらしい。このエピソードからも彼等の凄さが伝わってくる。
ツヨシと俺はしばらく一緒に練習していたが、その後ツヨシが練習場所に来なくなって、あまり顔を合わせなくなる時期もあった。
ある時全く関係ない筋から、ダンスの舞台に助っ人的に一緒に出てくれないかと誘われた時に、その一団の中にまたツヨシとJOがいて、その舞台がらみで一緒の時間を過ごすことになった。
その後はクラブイベントや練習場などで、ちょくちょく顔を合わせるようになり、なにか「縁」を感じる存在であった。
ツヨシにSpartanic の話をするのも、俺の中ではずいぶん迷ったあげくの事だった。何故なら上に書いたように、当時彼はFreezeというチームで活動していたからである。
Freezeはツヨシが同年代の仲間達と作ったブレイキングチームで、テレビでは「アサヤン」や「元気が出るTV」などに出演する他、ダンスコンテストやダンスイベントなどにも多数出演し、勢力的に活動していた。
*20秒あたり、タンスといじられているのがJO
*1分58秒 右側でヘッドスピンをしているのがツヨシ
*ツヨシはこの時事故のためギブスで参加しています。
*FREEZE(Tsuyoshi、JO、高橋、イヌイ、マサキ、鶴見)
俺にとって「チーム」とは重要な概念であり、既に別のチームに入っている人間を自分のチームに誘うことは抵抗のある事だった。この時はツヨシをFreezeから引き抜こうと思っていたわけではなく、掛け持ちでやってもらって構わないと思っていたが、それでもあまり気の進む事ではなかった。
しかしツヨシと一緒にやることはSpartanicとしてもだし、俺個人としても意味のある事であった。その頃ちゃんとしたチームでの活動をしていなかった俺は、一人での練習に行き詰まっていたし、もともとツヨシはいつか一緒にやりたいと思っていたからだ。ツヨシは若くて荒削りで、まだまだ未熟な部分ももちろんあったが、間違いなくこれからの時代を担うB-Boyだったし、何か光る魅力のある奴だった。
とあるダンスイベントで久しぶりにツヨシに会った俺は、話したいことがあると別日に彼を呼び出した。数日後、話をしに向かった場所は俺の家の最寄り駅にあった屋台のおでん屋だった。
おでん屋で語る世界進出の俺の構想はツヨシの頭にはどう写ったのだろうか?単なる絵空事のように思えたのだろうか?
「世界の舞台で優勝しよう」なんて話、普通は誰でもたんなる夢物語に思えるだろう。しかし、彼は俺の話に納得し、Spartanicへの参入を快く受け入れてくれた。これで やっと日本のSpartanicが2人に増えた。
97年も終わりに近づいた12月のことであった。
End of The Spartanic Rockers Story Vol.7
To be continued
Spartanic Rockers Story 最初のページ
Spartanic Rockers Story 一つ前のぺージ