日本人メンバー 3番目の男 Spartanic Rockers Story Vol.008

俺たちSpartanic Rockersの
波乱万丈な Story vol.8

「日本人メンバー 3番目の男」

俺がチームに誘った2人目の人物は、ツヨシと逆に、俺の7歳年上の先輩、

佐久間さん(佐久間浩之/さくまひろゆき)であった。

(同じチームの身内ではありますが、Spartanic Story ではずっと「さん」づけで書かせていただきます。自分にとっての自然体でないと、書いていて気持ちが悪いのでご容赦ください。)

スパルタニック本格始動を98年とすると、佐久間さんとは10年前ぐらいからの知り合いであった。

佐久間さんは、俺が知り会ったハタチぐらいの時には既にストリートダンス界では知らない人がいない存在であった。既にというか、もうずっと前からその武勇伝は、噂ではよく聞いていた。それも、当時の自分達からしたら、信じられないような話が多く、はるか遠い存在であった。

多分、佐久間さんと最初にお会いしたのは練習場所だったと思う。

当時、Tokyo Be Bop Crew(九州のBe Bop Crew からノレン分けをされたチーム。リーダーは現trfのSAMさん)やその周辺の人達を中心に、東京のダンサーの多くは目黒区民センターという公共施設を練習場として使っていた。そこは、ジャンルに関係なく多くのダンサーが集まって練習をするいわば「聖地」の様な場所であった。(現在、この施設は建物はそのままであるが、場所の利用形態は変わり、昔のような利用はできないようである。)

自分もこの区民センター2階のトレーニングルームを練習につかわせてもらっており、そこが出会いの場所だと思われます。

当時は(今もその考えは変わりませんが)
「同じダンスをやっている年上の人は先輩」だから直接のかかわりがなくても「挨拶」をするのが当たり前だった。

だから俺は個人的に知らなくても当然先輩皆さんに挨拶をする。

そういう事で顔見知りになり、ちょっとだけお話させていただくようになり、やがて少しずつ知らない先輩ともつながっていった。
最近は直接の知り合いでないと、挨拶もしない人たちが多くとても残念です。

さて、挨拶ぐらいはさせていただくものの、佐久間さんは年齢的にもダンス技術的にも当時の俺からしたら雲の上のような人で、気軽にお話をするような存在ではありませんでした。

それでもどうしても知りたいことがあって、時々ダンスの事を質問して教えていただいたりしておりました。当時から佐久間さんのダンスへのこだわりは、尋常ではなかったので、俺からしたら理解できない事が多かったです。

その後自分が仲間と一緒に赤坂に「スタジオフェイス」というダンススタジオを開校(1996年9月スタート:www.s-faith.com)した際にレッスンを担当してもらうようになり、ここからだいぶ距離が近くなってきたのかなと記憶しております。スタジオでのレッスンは毎週あったので、当時はツヨシよりも佐久間さんの方が会う機会は多かったと思います。

さて佐久間さんの半生は相当ドラマチックで、この短いコーナーではても書ききれません。是非別コーナーで「佐久間特集」を組みたいと思いますので、またそちらをチェックしてみてください。

佐久間さんは山口県の下関育ちです。
しかし、その人生は早くから波乱万丈でした。
実は、佐久間さんは事情により施設に預けられた子供でした。それを育ての親である両親に引き取られて少年時代を過ごします。ところがそんな愛情深い育てのご両親との生活も長くは続きませんでした。

中2で父親を、高1で母親をガンで亡くし、完全に一人になります。
アルバイトしながら自力で高校を卒業。

その後BE BOP CREW の生みの親、「よし坊」氏のダンスに魅せられて博多に移住。九州BE BOP CREW やTONY GOGO氏(ORIGINAL LOCKERS)との関わりの中で踊りを習得していきます。

1986年のショット(左:ピート氏/右:ガジロウ氏)

九州BEBOP CREW の活動停止後は、インペリアルを経て東京へ。

その東京に来た理由も、ジャズダンスやバレエを真剣にやりたかったからというから、ちょっと驚きです!
上京後はTOKYO BE BOP CREW、JUNGLEを経て

*JUNGLE 91年のビデオ

ダンス甲子園でお馴染みの「D or D」のプロデュースへ。
この頃は今でいうところのHIP HOP DANCE へ傾倒していきます。

*”D or D”は佐久間さんが振付、プロでユースしたチーム。92年の作品。

また、芸能界では、安室奈美恵や、SMAPなどが若かりし頃、ダンスの指導をしておりました。

佐久間さんは、ストリートダンスはもとより、ジャズダンスやバレエも含めてあらゆるダンスを経験し、身に付けていった元祖マルチダンサーと言えます。

さて、そんな佐久間さんは、オリジナル・ロッカーズのメンバーにも正式に認められたり、近年は特にLockin’で活躍されていることが多いので、「佐久間=ロッキン」というイメージが強いかと思います。

しかし、元々は日本でもNO.1のパワームーヴB-Boyでした。

20代前半に数回渡米し、ニューヨークで一大ムーブメントとして盛り上がっていたBreakin’を 目の当たりにする。そして当時の日本ではまだ誰も出来ないどころか、存在すら知らないような様々な技、「A-Tracks(HALO)」の連続や、「UFO」、「コンティニアスヘッドスピン」などを日本人の誰よりも早く習得したバリバリのパワームーヴァーであった。現在は年齢のせいもあって、あまりBreakin’をやらなくなったので、その分Lockin’やPoppin’でのイメージが強くなって来ているが、過去をさかのぼれば数々のBreakin’バトルの武勇伝がある。日本のB-Boyシーンを形作っていった先駆者と言える。

*1984年に既にこのクオリティとは驚きである。その他ヘイローやヘッドスピン等もこの時代に既にマスターしていた、正に日本のTOP B-BOY であった!

そんな凄い経験と実力の持ち主佐久間さんは97年当時、ちょうどチーム活動をしていなかったのと、俺なりのチームに対する考え方に合致することから、一緒にやりませんかと声をかけさせていただきました。

はっきり覚えてはいないが、この話をした返答は「うん、いいよ」みたいな、さっぱりとした返事だったような気がする。

この文章を書いている現在、佐久間さんにも「当時の事を覚えていますか」と質問したら、

「当時はチーム活動もしていなかったし、軽い感じで引き受けたんだ。」と言っておりました(笑)

まさに「波乱万丈な人生」を送ってきた佐久間さんにとっては、チームに入って活動するという決定は、本当に大した事ない選択だったのかもしれません。

軽い感じで引き受けたチームが、この後、佐久間さんだけでなく、我々チーム全員の人生に大きな影響を及ぼすことになるとは、多分佐久間さんも思っていなかったのではないかと思う。

こうして、日本人3人目のメンバーが決定した。


End of The Spartanic Rockers Story Vol.8

To be continued


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